2018年度以前の研究?研究者紹介/書評研究?研究者紹介/書評

三一運動百周年を前に植民地支配の反省と謝罪を促す声明
2019年は、朝鮮で人びとが日本の植民地支配に抗して立ち上がった三一独立運動から100周年に当たります。また、昨年はキム?デジュン(金大中)大統領と小渕恵三首相が日韓関係を新しい段階に導くために合意した「日韓共同宣言」から20周年の年でした。私たち平和?コミュニティ研究機構でも、2014年11月に金大中図書館と共同で立教大学にてシンポジウムを行ない、日韓共同宣言を生かす方策などについて議論したことがあります。
朝鮮半島に対する植民地支配への反省が日本において社会的に共有され、日朝国交正常化への進展があってしかるべき時であるにもかかわらず、日本では時代が逆行しているかに見えます。2月6日に発起人代表が東京で記者会見を行ない、以下の声明を発表しました。2月9日の時点ですでに賛同する方々が200人を超えました。
多くの皆様に共有していただきたく、ここに紹介する次第です。なお、同文が『世界』2019年3月号に掲載されています。
声明に関する問い合わせは、和田春樹先生までメールでご連絡ください。アドレスは以下の通りです。
fwjg0575@nifty.com

発起人の一人として 石坂浩一

2019年日本市民知識人の声明「村山談話、菅総理談話に基づき、植民地支配を反省謝罪することこそ日韓?日朝関係を続け、発展させる鍵である」


2019年2月6日

日本と韓国は隣国で、協力しなければ両国に暮らす者は人間らしく生きていけない間柄である。そういう二つの国の間で、1904年以来41年間の軍事占領、1910年以来35年間の植民地支配が、日本帝国によって朝鮮半島に加えられた。このことが両国の歴史の闇部をなしている。韓国?朝鮮人の歴史の記憶からこのことを消すことはできず、日本人はこれに対して人間的に対処することからのがれることはできない。

朝鮮植民地支配は1945年8月15日をもって終わったが、日本人は国家、国民として韓国併合、朝鮮植民地支配について反省し、謝罪する動きを長く見せなかった。日本は独立した朝鮮の一つの国、大韓民国と国交を正常化する日韓条約を1965年に結んだ。しかし、1910年の併合条約が当初より無効であったという韓国側の主張を受け入れず、合意によってなされた併合であり、植民地支配はなかったと主張し通した。双方の請求権に関する問題が「完全に、かつ最終的に解決されることになったことを確認する」と明記した請求権協定が結ばれたが、根本的な認識の分裂は克服されずに放置されたのである。

この日韓条約のもとで日本は大韓民国との国交を維持し、経済的な関係をとりむすび、多面的な協力を発展させてきた。20余年がすぎて、1987年、韓国では、軍部独裁政権の時代に終止符を打つ民主革命が起こった。そのあとに、ようやくにして、1995年自民社会さきがけ三党連立内閣の村山富市総理が閣議決定にもとづいて敗戦50年の総理談話を発表し、はじめて植民地支配について反省し謝罪した。日本国家は「アジア諸国の人々」に対して「植民地支配と侵略」によって「多大な損害と苦痛を与え」たことを認め、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」したのである。この反省と謝罪は、1998年の金大中大統領,小渕恵三首相の日韓パートナーシップ宣言において、「韓国の人々」に向けて表明され、2002年の金正日委員長、小泉純一郎首相の日朝平壌宣言において、「朝鮮の人々」に向けての表明となったのである。

植民地支配についてのこの反省と謝罪は画期的な表明であった。しかし、その完成のためには、なお併合そのものについての歴史認識が付け加えられなければならなかった。

2010年韓国併合100年の年に、私たち、日本の知識人500人は、韓国の知識人500人とともに、併合の過程と併合条約について批判する共同声明を発表した。私たちは、「韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である」と指摘した上で、併合条約について、「力によって民族の意志を踏みにじった併合の歴史的真実」を、「平等な両者の自発的な合意によって、韓国皇帝が日本に国権の譲与を申し出て、日本の天皇がそれをうけとって、韓国併合に同意したという神話」によって覆い隠したものであり、前文も条約本文も偽りであると明らかにした。「かくして韓国併合にいたる過程が不義不当であると同様に、韓国併合条約も不義不当である」——これが私たちの結論であった。

この声明はまず2010年5月10日に発表され、ついで第二次署名者を加えて、7月28日に発表された。そして、この声明にこたえるかのように、日本政府、菅直人総理は8月10日、閣議決定により韓国併合100年の総理談話を発表した。そこには次のような日本政府の認識が述べられ、反省と謝罪があらためて表明されている。

「ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され?以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました?三?一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり?政治的?軍事的背景の下、当時の韓国の人々は?その意に反して行われた植民地支配によって?国と文化を奪われ?民族の誇りを深く傷付けられました。私は?歴史に対して誠実に向き合いたいと思います?歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく?与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです?この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し?ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

これが、日本国家が「韓国併合」から100年、植民地支配の終焉から55年にして到達した歴史認識である。韓国国民の批判に促され、自らも努力してつかんだ反省と謝罪の新地平である。この総理談話に基づく行為として、日本統治のもとで朝鮮総督府が奪い、日本の皇室財産とされていた「朝鮮王朝儀軌」がこの年のうちに韓国政府に引き渡された。

であれば、いまは日本と大韓民国、日本と朝鮮民主主義人民共和国のあいだにのこる問題はすべて、村山談話と菅談話に基づいて、あらたな心で誠実に協議し解決していくべきなのである。日本政府と国民は慰安婦問題について過去二五年間とりくんできたが、この問題はいま新しい局面をむかえている。もとより北朝鮮の慰安婦被害者に対してもこれから対処がなされなければならない。今日日本と韓国のあいだでは、いわゆる「徴用工」問題、戦時労務動員被害者問題が大きな問題として立ち現れている。日韓条約の際協議がなされ、2000年代には韓国政府が積極的な努力を払ったが、20万人といわれる戦時労務動員被害者とその遺族の不満の声があらためて日韓関係に激震をあたえているのである。この問題には慰安婦問題同様なお一層の真剣な対処が必要とされる。北朝鮮の戦時労務動員被害者問題にたいしても同様な対処を考えなければならない。その他に「韓国人BC級戦犯」の問題も存在する。戦犯として死刑判決をうけた92歳の李鶴来老人は日本政府に謝罪と補償を求めつづけている。日本は朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化をすみやかに実現しなければならない。日本政府と国民は、村山談話、菅総理談話に基づいて、韓国、朝鮮の政府と国民の協力をえて、のこるすべての問題の解決にあたることができる。

本年は三一独立宣言が発されてから100年の記念の年である。併合されて、10年の苦しみをへながら、朝鮮民族はなおあの日、日本人に朝鮮の独立を求めることが日本のためだと説得しようとした。三一独立宣言は述べている。「こんにちわれわれが朝鮮独立をはかるのは、朝鮮人に対しては、民族の正当なる生栄を獲得させるものであると同時に、日本に対しては、邪悪なる路より出でて、東洋の支持者たるの重責をまっとうさせるものである」と。
いまわれわれは朝鮮民族のこの偉大な説得の声を聞き、東洋平和のために、東北アジアの平和のために、植民地支配への反省謝罪に基づいて、日韓、日朝の相互理解、相互扶助の道を歩むべきときである。

発起人
井口和起(京都府立大学名誉教授)
石坂浩一(立教大学教員)
李鍾元(早稲田大学教授)
上野千鶴子(東京大学名誉教授?認定NPO法人ウイメンズ?アクションネットワーク理事長)
内田雅敏(弁護士)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)
太田 修(同志社大学教授)
岡本 厚(雑誌『世界』元編集長)
小田川興(在韓被爆者問題市民会議代表)
糟谷憲一(一橋大学名誉教授)
鹿野政直(早稲田大学名誉教授)
小森陽一(東京大学教授)
高崎宗司(津田塾大学名誉教授)
田中 宏(一橋大学名誉教授)
外村 大(東京大学教授)
中塚 明(奈良女子大学名誉教授)
水野直樹(京都大学名誉教授)
三谷太一郎(日本学士院会員、東京大学名誉教授)
矢野秀喜(日韓つながり直しキャンペーン2015事務局長)
山田昭次(立教大学名誉教授)
和田春樹(東京大学名誉教授) 
書評:康潤伊、鈴木宏子、丹野清人編著『わたしもじだいのいちぶですー川崎桜本?ハルモニたちがつづった生活史』日本評論社、2019年(評者:立教大学兼任講師/早稲田大学現代政治経済研究所研究員 加藤恵美)
 本書は、川崎市桜本にある「ふれあい館」の識字教室に通う、朝鮮半島出身のハルモニ(おばあさん)たちが書いた作文集だ。昨年30周年を迎えた「ふれあい館」は、いわゆる公民館であるが、同時に市民運動の拠点でもある。ふれあい館は、「だれもが力いっぱい生きていくために」を理念として、桜本周辺で暮らす民族?ジェンダー?社会階層?年齢などにおいて多様な人びとを、地域コミュニティにつなぎとめる役割を果たしてきた。そうして形成されてきた地域コミュニティの「中心」に、本書の主役「辛酸をなめつくしたハルモニたち」がいる(p.4)。

識字学級の目的は、ひとつには、「ハルモニ」と呼ばれる年代になるまで読み書きを学ぶ機会を奪われてきた彼女らの識字能力を高めることにある。そしてもうひとつは、そんな彼女らが「心のうちにしまってある苦労話」を「自分の言葉で書きしる」すことで「心を解放」し「自らを癒す」こと、さらに彼女らの経験を「歴史の生の証言として残」し、「後に続く者たちの道しるべ」とすることだ(p.16)。こうした目的をもった識字学級において、読み書きを指導する側の者はハルモニたちから歴史を学ぶ者でもあるとして、自らを「共同学習者」と名のる。

本書には、16人のハルモニ(うち2人は南米出身者)が書いた作文が、4部構成で収められている。作文を書かれたハルモニ方には本当におそれ多いことであるが、まずは内容を部ごとに簡単に紹介し、その後、地域コミュニティの「中心」たるハルモニたちを支える「共同学習者」の重要性を、あらためて指摘したい。

ハルモニたちの多くは、1920年代から30年代に生まれ、幼少期に植民地朝鮮から日本への移動を経験した。中には、植民地解放後にいったん朝鮮半島に帰ったものの、朝鮮戦争により命を脅かされ再び日本に戻った者もいる。「記憶(第1部)」には、その間の経験に関する作文が収められている。いずれの作文にも、彼女らの記憶が鮮やかに再現されており、例えば、家族との思い出の象徴であった柿の木が朝鮮戦争の空爆で燃やされたことを綴った徐類順さんの作文は見事だ。

「どう生きてきたか(第2部)」には、ハルモニたちが、いわば一家の大黒柱として、戦後の時代をどのように生き抜いてきたのか、そしてどのように人生を終えたいと考えているのかが記されている。この間の彼女らの生活の厳しさが察するに余りあることは、「あの時のことはもういいです」と締めくくられた金文善さんの作文からも明らかだ。彼女らが老いとどのように向き合っているのかについては、「いま思うこと(第3部)」の中でも詳しく綴られている。

第3部「いま思うこと」では、ハルモニたちのヘイトスピーチに対する意見?態度もはっきりと表明されている。桜本はヘイトスピーチの攻撃を直接的に受けてきたが、その地域コミュニティの「中心」にいるハルモニたちのことばは力強い。『ヘイトスピーチやだね!!』と題して黄徳子さんが書いた直筆の作文は、本書刊行を目的として立ち上げられたクラウドファンディングのウェブサイトに掲載されているので、すぐに訪ねて見ていただきたい(注1)。

「教室の外へ(第4部)」では、識字学級の外で、自らの経験を語る機会を得るようになったハルモニたちの「きもち」が綴られている。金芳子さんは、『かたりべをする私の気持ち』と題して、次のように書いた。

私は、たのまれればいやだけどいつもみんなのまえでじぶんのこれまでのことをはなします。むねのおくのほうにねかしてあるいやなことをむりやり思いだしてはなすのはつらいです。
だからはなしてもはんのうがなく、なんにもかえして(く)れないと、はなさなきゃよかったと思います。

この金芳子さんの作文は、識字学級の外での「かたり」について書かれたものだ。その一方で、これまでハルモニたちが「つらい」ながらも「むねのおくのほうにねかしてあるいやなことをむりやり思いだしてはな」してきたのは、ハルモニたちがそうしたいと思えるような「はんのう」を、ハルモニたちの信頼を得て傍にい続けた「共同学習者」たちが重ねてきたからだということにも思い至る。彼らがいなければ、私はこの本を読み、タイトルにあるような『じだいのいちぶ』としてのハルモニたちを知ることさえできなかった。

さらに、私がこの本を読んで、間接的にでもハルモニたちの歴史を垣間見た以上、金芳子さんがいうように、私も彼女らに「はんのう」しなければならない、とも思う。それは当然、「貴重なお話をありがとうございました」の一言の先にあるのだろう。本書は、ハルモニたちのみずみずしい文章が、彼女らのいきいきとした表情を捉えたカラー写真に彩られて、一見とてもやさしい雰囲気をまとっている。しかし、途方もない被害をもたらした過去の植民地支配と戦争の責任を、現在を生きる私たちにより広く問いかけるばかりか、その負い方についての思考を巡らすことを促す、そうした厳しさも持っている。

立教大学兼任講師/早稲田大学現代政治経済研究所研究員 加藤 恵美


注1 Motion Gallery クラウドファンディング?プラットフォーム、「川崎桜本のハルモニがおもいをこめてつづった作文を、一冊の本にしたい。『わたしもじだいのいちぶです』出版プロジェクト」。
書評:共感が可能な社会的つながりを求めて——原発事故から8年目に思う?吉田千亜『その後の福島—原発事故後を生きる人々』2018年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)
 理不尽を強いられながら、それをひっくり返すことは到底できそうになく、悔しい思いをどこにぶつければいいのかと途方に暮れる。そういうことは、歴史上たくさんあったのだろうが、特に3?11以降の日本の状況から、そう思わされることが多い。
 私たち平和?コミュニティ研究機構では脱原発の映画上映会など、原発、そしてフクシマという現実を考えようとしてきた。キャンパスのエコ化を進めたいという思いもその一つだったが、十分取り組めていないのが残念だ。その一方で、当たり前のように「復興」という言葉に日本社会が染め上げられ、震災と原発事故に関わるいろいろな地域、いろいろな人びとの現実が、一方的に決めつけられ、もう原発事故なんてなかったかのように語られることも少なくないのではないかと感じる。
 未曽有の原発事故によって、各地に散らばりながら、根底のところで共通の苦難を背負わされ生き続ける人びとのことを、少しでも知らなくては。そういう思いで吉田千亜『ルポ 母子避難』(2016、岩波新書)を出版からほどなく読んだ。被害者であり、あらゆる意味で未来が支援されなければならない子どもたちと、その子どもを守る人びとが、わがままを言っていると非難され、安全を第一に考えることが許されていない現実が、そこには具体的に記されていた。原発事故後、避難した人、しなかった人、避難したけれど元の家や近隣地域に戻った人など、条件はさまざまでも、共通した思いはある。私たちは何を大切にしなければいけないのだろうかと、深く考えさせられた。
 著者プロフィールを見て、立教大学出身の人であることを初めて知った。その後、2018年9月に『その後の福島—原発事故後を生きる人々』が人文書院から刊行された。前著から状況はよくなっていないばかりか、被害者の人たちの現実がオリンピックなどの国策に覆い隠されていることが、細やかな取材により報告されている。あまり恣意的な紹介になってはいけないので、各章のタイトルを示しておこう。

1.避難指示を解かれて
2.不安を語れない空気
3.徐染の現実
4.賠償の実態
5.借上住宅の打ち切り
6.無理解の苦しみ
7.集団訴訟に託すもの

 政府と東京電力の責任はできるだけ小さくし、被害者の要求はできるだけ抑え込んで、人びとの目をちがう方向にそらす——こんな見え透いたといってもいいような手法で、原発事故被害者は私たちの目から覆い隠されている。避難も健康への不安も、被害者の責任であるかのように語られてはいないだろうか。しかし、本書は冒頭で、ある被害者の言葉を紹介している。「私たちは原発事故後に、何度も、大きい選択、小さい選択を繰り返してきたけれど、選びたいと思う選択肢なんて、いつもなかった。
放射能の影響がどれだけあるかは、何十年後でなければ明らかにならないのに、徐染が終わって、避難指示区域が解除されると、帰らなければ身勝手だといわれる。本書では水俣病など公害病をめぐる歴史が繰り返されていると指摘されているが、その通りだと思う。放射能汚染の影響を強調すると、風評被害を呼ぶと非難されるが、実際の汚染はまだなくなっていないのである。避難した子どもが健康の不安を抱きながら生きなければならないことも、消えることのない現実だ。本書4章では二本松市で農業を営む人の話が紹介されている。今起こっているのは原発事故が大地と作物を汚染している実害であって、風評被害と片付けるのは責任を消費者に押し付け東京電力を免罪することだと。
 7章で原発事故に関連したさまざまな訴訟を担う人びとの思いが紹介されている。裁判をしてもお金になりそうにもないが、このままでは日本全体の放射能の基準が緩められて子どもや孫の世代に禍根を残す、だから「裁判を通じて、日本全国の基準を下げるの、今しかないからだよ」(237頁)という原告の方の言葉はとても印象深かった。
厳しい中で生き抜いている人びとの姿には、頭が下がる思いだし、励まされる。今、被害者はひどく限定された範囲の人びとと思われているが、本書でも示唆しているように、あとになってずっと広い範囲の人びとが放射能の影響を受けたことがわかるかもしれない。その時に責任を取って対処するのは、未来の世代の人びとだ。私たちはもっと多くのことを知り、考えなくてはと思う。ともあれ、吉田さんの著書をぜひともお読みいただきたい。『世界』では3月号から吉田さんの福島ルポ「孤塁」の連載も始まっている。
あまりいろいろなことを一緒にしてはいけないかもしれないが、原発事故の被害者がかえって非難される逆転した風潮は、朝鮮半島に関連した研究をする者には、近年とても身近なものである。韓国の元日本軍「慰安婦」や第二次世界大戦時の戦時労働動員被害者、遺族に対する日本のありようは、まさに共通しているからである。植民地支配、戦時労働動員の被害者も、自分たちの責任ではないことで苦痛を負わされ、韓国の民主化以降、ようやく声を上げることができるようになった。それでも、日本政府は被害者の声を正面から受け止めず、被害者の分断が図られたり、日本の排外主義の声が高まったりしてきた。もう何をしても無駄なのかと思う中でも、韓国の若い世代や世界の世論で、わずかな慰めを感じつつ、すでに多くの被害者が世を去った。
社会的、構造的にやるせなさを抱かされる人びとが、排除し合うのではなく、共有できるものを見出し、ともに共感によって支え合う社会をめざす、そんなことは不可能だろうか。本書は考える契機になるにちがいない。
書評:吉次公介『日米安保体制史』岩波新書、2018年(評者:千葉大学グローバル関係融合研究センター特任研究員 小松寛)
 授業の話。「日本に外国の軍隊が駐留していることに疑問を持ったことがある人?」と問いかけると、学生らは怪訝そうな表情を浮かべる。日本に米軍基地が存在することを当然と思っているか、関心を持ったことすらないのだろうか。そこで、そもそも米軍は第2次世界大戦の敗戦国となった日本への占領軍であったこと、日米安保条約の締結によって主権を回復した後もその駐留が継続していること、そして米軍基地は全国各地に存在したが、戦後史の中で沖縄への集積が行われていったことなどを話す。授業終了後に提出されるレビューシートには「米軍基地が存在していることは当然だと思っていたのでハッとした」などの感想が帰ってくる。

 学会の話。沖縄の新基地建設問題についてある先生が、「日本国民の大多数が日米安保を肯定しているから、それを前提とした解決策を模索すべきだ」といった主旨の報告をされた。部会終了後、懇親会会場まで移動しながら議論していると、もうひとりの先生が「しかし、日米安保以外の選択肢を示すことも研究者の役割ではないか」とおっしゃった。私は思わず「でも今では日米安保を否定すると誰も聞く耳を持ってくれませんからね」と言ってしまった。これは拙稿「戦後沖縄と平和憲法」(島袋純?阿部浩己編『沖縄が問う日本の安全保障』岩波書店)で「「日米安保打破」といった左派的言説が現実的訴求力を失っている」と論じた経験からの発言だった。しかし、日本国民の80%以上が日米安保を肯定的に評価している(内閣府世論調査)ことを前提としながらも、現状を追認するのではなく、その弊害に目を向け、オルタナティブな安全保障体制を模索する意義は失われていないはずである。

 上記のような問題意識を共有する人にとって、吉次公介による『日米安保体制史』は非常に有益な書である。吉次は日米関係史や戦後日本政治史の最新の研究成果を織り込みながら、日米安保体制の形成と変容を描く。本書は「日米安保体制」を「日米安保条約及びそれに関連する諸取決めに基づく、軍事領域を柱とし、政治?経済領域も含む、安全保障に関する日米の協力体制」(iv頁)と定義した上で、日本による対米防衛協力、米軍基地の運用の在り方、米軍基地から派生する事件?事故に代表される基地問題を要点として論じる。

 さらに日米安保体制の構造的特質を詳らかにするために、「非対称性」?「不平等性」?「不透明性」?「危険性」という4つの要素に着目する。「非対称性」は、日本側は基地を提供し、米国は軍隊を提供するという「物と人の協力」を指す。「不平等性」は、日米地位協定に象徴される、日本の国家主権が十分に尊重されていない状態を意味している。「不透明性」は有事の際に米軍による沖縄への核持ち込みを認めた密約など、十分な情報公開がなされていなかった点を示す。そして「危険性」は、在日米軍の事件?事故による国民の安全への脅威である。この3つの論点と4つの要素を軸として、本書は日米安保体制の歴史を5つの時期に区分している。以下、評者の観点から各章の要点をまとめてみたい。

 第1章「講和の代償(1945?60年)」では冷戦下において、講和と同時に調印された日米安保条約が暫定的な協定として始まり、60年に改定される過程が記されている。安保改定に際しては事前協議に関して密約が結ばれており、それは「不透明な術策」であった。また、この時期に日本本土では基地拡張や事件?事故への反発から反基地闘争が展開されていた。その結果、地上部隊は米軍の直接統治下にあった沖縄へと移転した。

 第2章「米国の「イコール?パートナー」として(1960~72年)」では、高度経済成長を果たした日本が、ベトナム戦争を抱える米国から要求される「負担分担」に対応しながらいかに沖縄返還を実現させたかまでが描かれている。沖縄返還の条件として米国は基地機能維持の保障を求めた。しかしこれは米国のみならず、韓国や台湾の要求でもあった。すなわち「日本本土やアジア諸国の米軍が大幅に削減される中、在沖米軍がほぼ維持された事実に照らせば、沖縄返還は、日本本土だけでなくアジアの自由主義諸国が安全保障面で沖縄への依存を深めるプロセスだった」(75頁)。

 第3章「日米「同盟」への道(1972~89年)」は米中接近、新冷戦、そして冷戦終結へと至る変動期の日米安保体制の変容について論じられている。78年の「日米防衛協力のための指針」によって日米合同演習?訓練が可能となり、限定的ながら「人と人の協力」の要素が取り入れられた。米軍駐留経費の負担(思いやり予算)もこの時期に始まった。在日米軍の活動範囲は中東まで及び、安保体制の「グローバル化」が進展する。国際社会は冷戦の終結を迎えるが、日本は負担分担への対応に追われ、東西間の信頼醸成へ「平和国家」としての役割を果たすことはできなかった。

 第4章「冷戦後の課題(1990~2000年)」ではまず、130億ドルを支出したにも関わらず、クウェートが感謝広告にて日本に言及しなかった「湾岸のトラウマ」への考察が加えられている。そもそもこの広告は多国籍軍を対象としていたが、それにも関わらず日本政府は人的貢献が必要との主張に囚われる。これは米国が求める自衛隊の海外派遣を実現するための口実として使われた。こうして日米安保体制の意義は共産主義勢力の封じ込めからアジア太平洋の安定と再定義され、対米協力は強化された。他方で沖縄では95年の少女暴行事件を発端に基地問題が顕在化する。「冷戦後の「同盟」強化と本土の「危険性」低減は、「危険性」「不平等性」の沖縄への偏在と表裏一体であった」(166頁)。

 第5章「安保体制と「グローバル化」(2001?18年)」では、米国の「対テロ戦争」に自衛隊が参画し、対米協力のグローバル化が進む道程が示されている。小泉政権は米国の世界戦略への関与を国際協調の一環として進めた。民主党政権は密約の解明で「不透明性」の改善を図ったが、米国側は不信感を持つ。さらに鳩山の「東アジア共同体構想」や普天間基地の移設先をめぐる迷走は日米関係を損なわせた。安倍政権は集団的自衛権の行使を容認し、安保関連法を成立させることで、自衛隊による米軍への地球規模での後方支援を可能にした。しかし「安保体制の「グローバル化」と「対称性」の追求に腐心することが、果たして日米関係の発展につながるのか」(210頁)と筆者は問いかける。

 「おわりに」では、いまだに日米安保体制の「危険性」「不平等性」「不透明性」という構造的歪みが是正されていないことを指摘した上で、安保体制の課題が整理されている。それは「平和国家」日本の国際的役割を見定め、対米協力の拡大には国民的合意を図り、周辺国との信頼醸成で安全保障のジレンマを回避することである。また、十分な情報公開による透明性の確保と、在沖米軍の大半を占める海兵隊の削減と普天間基地移設計画の見直しにより沖縄の負担軽減を図るべきとしている。そしてこれらの実現が日米安保体制の安定に必要だと説く。

 本書の意義のひとつは、日本の安全保障政策の転換期となった2015年の安保法制をめぐる政治動向や多様な議論と社会運動を踏まえた上で、日米安保体制の歴史を振り返った点にある。それにより近年の日米安保をめぐる議論を理解するために必要な経緯と知見が端的にまとめられている。また、昭和天皇の日米安保体制への認識や関与についても言及されている点も特色であろう。これは「平成流」と呼ばれる今上天皇の沖縄への積極的姿勢の理解につながる、かもしれない。

 日米安保体制は「非対称性」?「不平等性」?「不透明性」?「危険性」を構造的要素としながら半世紀以上、成り立ってきた。これを是正しながら日米安保体制を存続させることは大変な困難であることは想像に難くない。しかし本書の提言を基に、真摯かつ建設的な議論が広まることを期待してやまない。

*評者の小松寛先生は2019年度から本学で平コミ提供科目の授業をご担当くださいます。また、本書著者の吉次公介氏は立教大学の学部、大学院で学ばれたのち、沖縄国際大学教授を経て、現在立命館大学法学部教授として勤務されています。
書評:吉成勝男?水上徹男編『移民政策と多文化コミュニティへの道のり—APFSの外国人住民支援活動の軌跡—』(評者:立教大学社会学部兼任講師 大野光子)
 一般的に日本社会は長らく「移民」や「移民政策」といった言葉に無頓着だったと言える。多くの人びとは、自分たちが住む社会は移民とは無関係だと思ってきただろう。しかし現在、その見方は大きく変更を迫られている。

 1980年代後半、日本はバブル経済下における好景気の真っただ中だった。その頃から近隣のアジア諸国から仕事を求めて日本にやってくる外国人労働者が急増した。また、1990年6月に改正された出入国管理及び難民認定法が南米からの日系人に就労資格のある「定住者」ビザの交付を認めたため、主にブラジルやペルーから多くの人びとが到着し、日本の外国人人口は一気に増加、またそのエスニシティも多様化した。その後も日本の外国人人口は増え続け、法務省入国管理局によると、2005年にその数は初めて200万人の大台を超えた。東日本大震災の影響で2011年と2012年、その数は一時的にやや減少するが、再び増加傾向をみせ、2018年の統計では外国人人口は、約263万人となっている。このように増加を続けてきた外国人人口であるが、当初は労働目的で来日し短期の労働者と見られることが多かった彼らも、日本での結婚や出産といった重要なライフイベントを経て滞在が長期化し次第に地域へ定着、そして定住の傾向を見せるようになった。現在では、彼らを地域の成員として迎える視点の重要性が高まっている。

 このような外国人人口の変遷に対して、日本政府はどのような対応を取ってきたのだろうか。長い間政府は、公式的には移民の受入れに関して扉を閉ざしてきた。しかし1990年代以降、外国人労働者のその後の定住や国内人口の高齢化の加速に関連した労働人口の減少が深刻な課題となり、「移民政策を持たない」という日本政府の態度は、それを維持するのが難しくなった。2000年代中頃、地域に定着した外国人住民との共生を謳う「多文化共生推進プラン」の策定や高齢化社会を意識した外国人看護師及びケアワーカーの受入れなど、政府は移民政策の改正に取り組み始めた。そして2010年には、政府は移民受入れに賛成する立場を明確にしている。様々な問題を抱えているが、既にEPAの施行により多くの外国人看護師やケアワーカーの候補者が日本の福祉産業で活躍し始めている。
 
 本書は、このような外国人住民の増加と定住が進む今日の日本社会を対象として、「多文化コミュニティの形成」を目指しているものである。日本社会における外国人人口の増加については、一般、専門書問わず既に多くの本で扱われてきたが、本書の特徴は、「政策や制度について学術的に議論したものではない。むしろ、移民問題にかかわる事例、このような事情に関係した人たちの活動、あるいは当事者たちの経験を取り上げて、机上の議論や構想ではなく、実践活動としてかかわった記録」である(本書,「はじめに」,p.ⅱ)。その際本書では、NPO法人「APFS(Asian People’s Friendship Society)」を取り上げ、彼らの30年に及ぶ活動を実践者や当事者を含め関連した人びとを執筆者として迎え、詳細に記述している。APFSは、「1990年代初めから一貫して『移民受入れの前に非正規滞在外国人の正規化』を掲げて外国人住民の支援活動を行ってきた」団体である(本書,「はじめに」p.ⅳ)。
 
 本書は、3部構成となっている。第1部「外国人住民と関連した社会の変化」では、APFSの設立経緯や活動の詳細な記述を核としながら(第1章、第2章、第3章、第4章)、APFS創設者吉成勝男氏が2011年に「多様な人々が豊かに暮らせるコミュニティの基礎づくりを目的として」(本書, p.88)新に立ち上げた、「ASIAN COMMUNITY TAKASHIMADAIRA (略称、高島平ACT)」を取り上げる他(第5章、第6章)、後の章では、在留特別許可、「内なる国際化」に対応した人材を育成するための支援活動団体と大学のコラボレーションの実践、そしてより包括的な議論として「多文化共生」概念の再考(第7章、8章、9章)を取り上げ、日本社会の変化について論じている。

 第2部「トランスナショナルなネットワークと国際移動」では、第10章~14章において日本
とバングラデシュを事例に両国間に形成されたトランスナショナルなネットワークの内実を明らかにしている。日本国内で外国人人口が急増した1980年代後半以降、社会的にも学問的にもそのことが話題となり社会学の分野でも外国人住民を対象とする調査?研究が盛んになった。そのようななかバングラデシュからの労働者にはほとんど目が向けられてこなかったが、実際には1980年代半ばから終わりにかけてバングラデシュ人の人口は急増し、バングラデシュ?コミュニティを形成してきた。該当の各章では、帰還バングラデシュ人に対するインタビュー調査の結果から彼らを取り巻く人間関係を丁寧に記述し、日本でのバングラデシュ?コミュニティの形成や二国間にまたがったトランスナショナルなネットワーク形成がいかになされたのか明らかにしている。その後の章では、インドネシアとフィリピンを事例として、EPAによるひとの国際移動が論じられる(第15章、第16章)。

 最後の第3部「外国人住民の福祉?教育?自立支援事業」では、外国人女性の自立(第17章、第18章)、教育現場、医療現場からみる多文化共生の課題(第19章、第21章)、そしてAPFSが主催した「多文化家族の自立に向けた包括的支援事業」を取り上げ、参加者となったフィリピン人女性の経験が来日の経緯とともに記される(第20章、第22章、第23章)。その他コラム等も含めて、活動実践者や当事者の生の声が詳細に記録されている。
 
 以上のように本書は、当事者や活動の実践者、そして現場で多文化共生の課題に直面する人びとの経験や生の声が中心的なデータとして構成されている。そのため、多文化共生に関連する現状や課題をリアルに感じることができ、本書の目的である「多文化コミュニティの形成」を具体的にイメージすることができる。現在、日本政府は移民の受け入れを進めようとしているが、本書で取り上げているような「既に日本社会にいる外国人住民」が抱える問題を置き去りにはできない。今後政府がおこなう移民受け入れに関して、何が問題なのか、を知るために本書は役立つだろう。
ユン?イルソン先生を追悼する(平和?コミュニティ研究機構 石坂浩一)

ユン?イルソン先生

私たち立教大学平和?コミュニティ研究機構では2010年に日中韓の都市づくりと住民参加に関わるシンポジウムを行ない、その成果を2012年に『再生する都市空間と市民参画』(CUON)という本として出版した。その後、この本は平コミが提供する全学共通科目の授業「アジア地域での平和構築——東アジアにおける都市空間の再生と若者」(福島みのり先生担当)において教材として使用されてきた。
2012年のシンポジウムにおいて、釜山大学のユン?イルソン先生はニューヨーク、上海に加え、ソウル市ムルレ洞、釜山市チュンアン洞、そして仁川市ヘアン洞を取り上げ、都市再生と文化について興味深い考察を展開された。ちなみにこのシンポジウムにおいて、環境運動連合のイ?ヒョンジョンさんは、ソウル市のヤンジェチョンとホンジェチョンの河川事業について、チョンゲチョン復元工事を念頭に報告した。私は水原のスウォンチョン暗渠撤去の住民運動について報告した。シンポジウム後の席でユン先生とソウル?水原の問題について少しお話ししたと思うが、具体的なことは忘れてしまった。残念である。
 ところで、このシンポジウムに参加してくださった釜山大学のユン?イルソン先生が2017年12月1日に亡くなられたことをうかつにも、18年12月に先生の遺稿集が出たことでようやく気付いた。まだ56歳という働き盛りのお年だった。肺疾患を患っていらっしゃったという。


ユン先生は釜山のご出身で、ソウル大学社会学科の修士課程を終了後、英国のエセックス大学で住宅問題に関する研究で博士号を取得し、韓国帰国後、釜山大学社会学科で教鞭をとられた。帰国後、釜山大学に着任する以前にはソウルでチョンゲチョン復元事業に関連して、調査研究をされたこともあるとうかがった。研究においては都市と環境にかかわる様々な分野を取り上げられ、都市の乱開発、住宅問題、環境保全、ホームレスの支援など、遺稿集を見ると先生の研究の幅広さがわかる。いいかえれば、都市に暮らすあらゆる人びとの生活と権利に関わろうとする姿勢を見て取れる。韓国の市民団体である参与連帯は国内外に知られているが、ユン先生はプサン参与連帯の都市委員会委員長も務められた。研究者として、教育者として、そして実践者として、忘れがたい足跡を残されたといえる。
釜山日報のチョ?ソヒ記者はユン先生の教え子のようで、2017年12月4日付の同紙に「私たちはユン?イルソン先生に借りができてしまった」という追悼コラムを書いた。
ユン先生の都市社会学の授業では、海の景観がすべての人々に開かれた共同の財産であるという考え方に初めて接し、文化社会学の授業では朝鮮戦争当時の釜山のホームレスの写真を見て、討論する授業をしたという。そして、授業時間が少し残ると、そらんじている詩を詠じてくださったのだとか。
釜山市では海雲台に象徴される大規模開発が続いたが、こうした大企業本位の大型開発は、市民を疎外し、必ずや不正を生むとユン先生は指摘していた。実際、その通りになってしまったとチョ?ソヒ記者は指摘する。そして、ユン先生が守ろうとしたものを、これから自分たちが担わなければならない借りがあるというのである。
ユン?イルソン先生の遺稿集『都市は政治だ』はサンジニ(???)という出版社から刊行された。章立ては以下の通りである。

第1部 都市政治
第1章 釜山市大規模乱開発に対する批判的アプローチ
第2章 海雲台観光リゾートの都市政治学
第3章 エルシティ検察捜査の成果と限界
第4章 釜山北港再開発の争点
第2部 都市再生
第5章 都市貧困地域再生の新たなパラダイムのために
第6章 英国の都市再生政策の変化の過程と教訓
第7章 地域社会共同体の再活性化と民官協力
第8章 都市再生R&D事業の社会的影響および波及効果
第3部 都市文化
第9章 都市貧困についてのふたつの視線
第10章 文化芸術と都市再生、そして住民参加
第11章 若い建築家へ:ある社会学者の悩み

追悼式の会場

以上の内容は未発表原稿を含んでいるが、ユン先生のパソコンにあった『都市は政治だ』というタイトルの本の構想に従い、最小限の編集にとどめて、遺稿集にまとめたという。ユン先生が日本で発表された内容は『再生する都市空間と市民参画』第2部に収められているが、『都市は政治だ』において第10章として生かされている。一語一語確認したわけではないが、同じ内容であると見られる。
遺稿集出版を機会に、ユン?イルソン先生を追悼する思いをともにする人びとは、「行動する都市社会学者 故ユン?イルソン教授を追悼学術行事 追悼式」を2018年12月1日、釜山大で行なった。

この日の学術行事で報告をした東亜大学社会学科のチャン?セフン教授は、ユン先生の学問を「義理の社会学」と呼んだ。とても東洋的な表現で、ユン先生と親しく話し合うことのできなかった私にとってはふさわしい言葉かどうか、わからない。しかし、ユン?イルソン先生が義理を重んじる方であったことは、短い出会いでもわかるような気がするのである。
日本でも韓国と同様、政治家と資本による一方的な開発や住民疎外はやむことがない。「借り」があるのは私たちも同じではないかと思う。ユン?イルソン先生を心から追悼し日本の研究者の努力と、韓国の研究者との積極的な協力を誓いたい。
なお、ここに掲載した写真はサンジニ出版社のホームページよりお借りしたものである。記して感謝したい。
『祖国が棄てた人びと』出版記念講演会へのご参加、ご協力に感謝いたします(平和?コミュニティ研究機構 石坂浩一)

『祖国が棄てた人びと』出版記念講演会への ご参加、ご協力に感謝いたします

 11月22日、立教大学池袋キャンパス8号館8303教室において、在日韓国人政治犯の現代史を描いた韓国の書籍『祖国が棄てた人びと』日本語版の出版記念講演会が開催されました。
 
 本の著者でハンギョレ新聞の元編集人(主筆)の金孝淳(キム?ヒョスン)さんの講演は、本に書けなかったエピソードを含め、とても印象深いものでした。金さんがソウル大学在学当時、在日韓国人で母国に留学した京都出身の青年と出会い、韓国社会が意識することのない在日韓国人の生きづらさに気づいたことが、その後、東京特派員を務め在日韓国人政治犯に関心を持っていくきっかけになったことを明かされました。
 
 講演に先立ち、立教大学兼任講師の李昤京(イ?リョンギョン)先生が、在日韓国人政治犯の再審請求状況、そして事件のでっち上げられた時期と韓国の情報機関や支配機構との関連について、鋭い報告をしてくださいました。
 
 当日は150名と多くの方に参加していただくことができました。在日韓国人政治犯の再審支援に当たった弁護士や市民団体の皆さん、そして原著を出版した出版社?西海文集のカン?ヨンソンさんら、韓国から駆けつけてくださった皆様と会をともにすることができたのは、嬉しいことでした。また、獄中で苦労した元政治犯として金元重(キム?ウォンジュン:千葉商科大学教授、経済学)さん、関西から駆けつけた李哲(イ?チョル)さんら5人の方々、また元救援会として金元重さんの会や姜宇奎(カン?ウギュ)さんの会の皆様をはじめたくさんの方々がお越しくださいました。日本のマスコミ、韓国のハンギョレ新聞など、マスコミ関係の皆様もお越しくださいました。
 
 その後、『ハンギョレ』が11月26日付で立教での講演会を報じ、日本語の電子版サイトでも紹介されました。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/32204.html なお、原文はこちらです。http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/871735.html

 その後、週末の24日には大阪でも同様の講演会が開催されました。日本でのこうした動きをまとめ、『ハンギョレ』12月1日付は「無罪判決で堂々と生きることができるようになったが、大韓民国の謝罪が欲しい」との記事を、1面全てを使って報道しました。
 
 日本語はありませんが、記事は以下で見ることができます。http://www.hani.co.kr/arti/society/rights/872619.html
 
 皆様のご協力でこのように出版記念講演会を盛会で終えることができました。ご参集、ご協力くださった皆様、ありがとうございます。講演してくださった金孝淳先生、準備に頑張ってくださった金元重先生、あらためて感謝いたします。
また、本をお読みになっていらっしゃらない方は、ぜひご一読ください。明石書店に直接注文されると比較的早く届くはずですが、出版を準備した関係者にお問い合わせくださっても構いません。
 
 在日韓国人政治犯救援運動は、日本政府の韓国軍事政権に対する支援、在日コリアンに対する抑圧政策や差別をただしていこうとするものでした。それは、日本社会は正しく、韓国の政治は独裁で悪だといった見方とは正反対の、日本のあり方を直視してこそ、在日コリアンや韓国民主化運動にアプローチできるという志によるものだったと思います。日本の社会運動の成果と課題を跡付ける作業はまだ始まったばかりで、日本の研究者も今後一層考察を深めていかなくてはと、思いを新たにする講演会でした。

立教大学 平和?コミュニティ研究機構代表
『祖国が棄てた人びと』監訳者
石坂浩一

言葉の力を信じて—同人誌『いのちの籠』と韓国の詩に思う(異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

言葉の力を信じて—同人誌『いのちの籠』と韓国の詩に思う

 その人は
 アメリカに押し付けられたいじましいみっともない人となじ
 られていた
 なじる人はアメリカに自衛隊を差し出し
 自衛隊をその人に明記しようとしていた

 アメリカ兵と自衛隊が同じ軍服を着て
 American-army, Japanese-army と肩を並べてみたら
 やっとアメリカと対等になれるだろうと

 南スーダンから帰還した Japanese-armyは
 何を見ただろうか
 その痛みや恐怖のことは
 誰も語らなかった

 中村純さんの詩「その人」の冒頭部分である。もちろん、読者は「その人」がだれであるか、お分かりだろう。この詩は「戦争と平和を考える詩の会」が発行する同人誌『いのちの籠』38号に掲載されたものである。『いのちの籠』は奥付に書かれているように「戦争に反対し、憲法9条を守る詩の雑誌」であり「掲載されている諸作品は、反戦集会などのいろいろな集まりで、朗読その他に、自由にお使いください」とその姿勢が表明されている。年3回の刊行というから、すでに10年以上続いていることになる。
 ここで登場する詩は、憲法9条はもちろん、脱原発、沖縄、#Me too、朝鮮半島など多岐にわたるテーマをうたっている。日本では文学は政治に支配されるべきではないという命題が強調されるあまり、政治に関わるようなことを書く行為自体を避けるような傾向が強いようだ。しかし、目の前に差し迫っていることをやむにやまれず表現しようとすれば、感じ語らずにはいられないことをだれかに伝えようとすれば、言葉は生まれてくるのではないかという気がする。

 とるものもとりあえず
 子ヤギを運ぶときの麻袋に
 赤ん坊を包んで
 ただそれだけを胸に抱いてきた

 テントの 三つ目の夜
 眠らない子の耳に
 草摘みのうた 歌い
 砂の降るおはなしを ささやいていると

 おさないいのちのほかは
 何もかも残してきた故郷から
 ことば だけは
 持ってくることができたのだ と気づく
 荷物検査所でも まさぐられなかった 
 わたしの持ち物

この詩は草野信子さんの「持ちもの」の前半部分である。『いのちの籠』39号に掲載された。場所は特定されていないが、故郷を追われテントに暮らさざるをえない親子が、あちこちの紛争地域に生きているだろう。持っているものは何もないが、「ことば」だけは奪われなかったという、そのひとことに胸を衝かれる。日本に暮らしている私たちは、悪意の言葉にどれほど囲まれていることか。川崎や大久保で声高に叫ばれるヘイトスピーチは、その典型だ。聞きたくなくとも耳に入ってくる、人を傷つける言葉に、むしろ無力感を感じることが多いかもしれない。しかし、何もかも奪われた人びとが、穏やかに語る言葉、強く叫ぶ言葉、必ず他者に届く言葉があったはずではないか。
個人的な話になるが、私が詩というものの存在を喜ばしく感じたのは茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を読んでからだった。その後、木島始訳の『ラングストン?ヒューズ詩集』を読んで、こんなふうに翻訳ができたらいいな、とあこがれた。その後、かつて私が関わっていた在日韓国人政治犯救援運動において、縁あって法政大学で教壇に立っておられた木島先生にあれこれと助けていただくことになり、ときおり大学にお邪魔しては政治犯の話、アジアの詩や絵画の話など伺うことができた。こうして出会った詩は、韓国で民主主義や人間をうたった詩と違和感なく通じるものがあった。木島先生も亡くなられたが、私が言葉の力を信じることができるのは、こうした出会いや教えがあったからだと思う。
日本の詩人たちはさまざまな形で韓国の詩人たちと交流を続けている。日本社会、特に政治の世界やインターネットでは、韓国人をおとしめ悪罵を投げつける声が、歴史問題などをきっかけにこのところますます高まっている。だが、出会ってみる、言葉を通じて理解しようと努める、そうした営みがあれば今日のような状況にはならなかったのではないだろうかと感じないではいられない。小説ももちろん力があるが、詩は人びとの心により直接的に訴えかけてくる力があるのではないだろうか。対立するのではなく、語り合い、何かをともにうたってみるということを、わたしたちはしなくていいのだろうか。
韓国の詩人との交流や、単なるイベントにとどまらず着実に翻訳や出版に尽力しているのは、詩人の佐川亜紀さんである。佐川さんが訳したり出版をプロデュースした作品は数えきれない。佐川さんが編集に関わる雑誌『詩と思想』2018年7月号は「韓国詩—平和と民衆運動」を特集した。古くから活躍する李時英(イ?シヨン)、社会運動でも活躍している宋竟東(ソン?ギョンドン)、童話が日本でも翻訳された安度眩(アン?ドヒョン)などが紹介されている。この特集では申鉉林(シン?ヒョルリム)がとても印象深かった。

人のようにキスする山鳩を見て
人生が不思議でもっと知りたくなって自殺しなかった

申鉉林の「私は自殺しなかった 一」という詩の一節である。言葉の力を信じて、平和を願って、何かを語り続けようとするすべての皆さんに、こうした詩人たちから励ましを得ることができるように願ってやまない。
なお、『いのちの籠』は書店では販売していないが、143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田四郎様宛に申し込めば購読することができる。

本学異文化コミュニケーション学部教員 石坂浩一
書評:文在寅著?矢野百合子訳『運命 文在寅自伝』岩波書店2018(評者:異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

隣人としてのその人を見よ『運命 文在寅自伝』2018年10月 岩波書店

 2017年5月に韓国の国民はムン?ジェイン(文在寅)という人物を大統領に選んだ。ムン?ジェイン大統領が誕生した時、おそらく韓国の市民たちはある感動を感じたのではないかと思う。
 1998年にキム?デジュン(金大中)大統領、2003年にノ?ムヒョン(盧武鉉)大統領が誕生したことで、多くの韓国人も、また韓国に関心を持ってきた日本の市民も、韓国の民主主義はもはや後退することはないだろうと思った。2008年にはイ?ミョンバク(李明博)政権が誕生したが、民主主義の根幹を揺るがすことはなかろうと楽観していた。ところが、歴史は反共保守政治を再現してしまった。あらゆる社会運動は弾圧され、人権のさまざまな基準も後退した。民主化の10年を担った大統領は2009年に二人とも亡くなった。勝ち取った民主主義がこれほどもろくも崩されるものとは、思ってもいなかっただろう。
たくさんの人びとが、2008年以降の保守政権の9年間に抗議の声を上げた。最初に女子高校生たちが声を上げた米国産BSE牛肉輸入反対運動しかり、300人あまりの人々の命を奪いながら当日の政府の対応さえ公開できなかったセウォル号事件に対する真相究明、抗議運動しかり。だが、道のりは遠かった。マスコミで自由な報道のために体を張っていた記者たちは多数職場を追われ、労働者は無慈悲に職場を解雇された。公教育の教員たちの労働組合は、教員の団結権を認めないという政府の方針により、非合法化された。いわゆる先進国では例を見ない事態だった。韓国の市民、そしてそれに心を寄せる世界の市民は暗い時代を過ごした。けれども、あきらめることはなかった。その市民の意志の力がどれほど社会を動かすかを、2016年から17年にかけて韓国で展開されたロウソクデモは雄弁に教えてくれた。不義の政権を引きずり降ろして誕生した大統領ムン?ジェインは、その象徴である。
 本書は2011年に初版が出版され、韓国でベストセラーとなった『ムン?ジェインの運命』の翻訳である。訳者は本学で長年兼任講師を務め朝鮮語を教えてくださっている矢野百合子先生で、年譜は私が担当した。解説は一橋大学のクォン?ヨンソク(権容奭)先生が執筆された。
 ノ?ムヒョン大統領は自分の著書に『運命だ』というタイトルを付けた(日本では未刊行)。キム?デジュンは何度も大統領に挑戦し、ようやくその座について、誰もできなかった業績を成し遂げた人物である。そのあとを受けて、キム?デジュン大統領の派閥とは縁がないノ?ムヒョンが大統領になったのは、まさに時代が求めた人物だったからだ。だから、それが「運命」だった。任期終了後、保守勢力が猛然と反撃し、ノ?ムヒョンを攻撃して窮地に追い込んだのも、運命だったかもしれない。ムン?ジェイン政権になって、不法で非道徳的な民主主義の後退は、調査、検討され、ゆがんだ道が正されようとしている。
 ムン?ジェインは韓国の慶尚南道で生まれたが、両親は北朝鮮の咸鏡南道興南出身だ。韓国映画〈国際市場で逢いましょう〉を見ると、冒頭に朝鮮戦争のさなか、興南から人びとが米軍の船で南に避難する、いわゆる興南撤収の場面が出てくる。ムン?ジェイン大統領の両親もそのようにして南に来た。統一されたら北に行き、街弁をしてみたいというムン?ジェインの言葉にはそうした背景がある。
 学生時代は学生運動をして逮捕された。1980年のソウルの春で復学、卒業はできたが、時代はすぐには変わらなかった。裁判官を志望したが学生運動の前歴のために果たせず、弁護士となる過程でノ?ムヒョンと出会う。多くの労働運動関連の弁護をして、民主化運動側の人となった。そして、ノ?ムヒョン政権で大統領秘書室長などの要職を歴任するのである。こうした波乱の人生が活劇のように本書にはまとめられている。
ムン?ジェインは2012年12月の大統領選挙に出馬し、この時はパク?クネ(朴槿恵)候補に敗れた。このチャレンジを前にして本書は書かれているので、その後のことは書かれていない。解説に大統領になるまでの、12年以降の歴史が簡単に書かれているので参考になる。いずれにしろ、ノ?ムヒョンと出会い、その盟友として民主主義を生き返らせようとするのがムン?ジェインの運命であったようだ。
ムン?ジェインは本書で、自分にとってノ?ムヒョンという存在が何なのか、まだわからないが、彼が残した宿題があるというのに「その時代に果たすべき役割から逃れられる者がいるだろうか」(365ページ)と自問自答する。その役割をささやかであっても引き受けようとする点で、彼は私たちと同じであり、良き隣人である。
ノ?ムヒョン政権が終わってから韓国の民主主義が後退を強いられた見逃せない要因は、南北対立の状況下での権威主義的政治手法の復活であった。北朝鮮が南を狙っている、国を守るには北朝鮮を圧迫しあわよくば崩壊させるべきで、それを批判するのは北に味方することだ。そんな論理がまかり通り、当たり前の人権や言論の自由、平和の要求も、抑え込まれた。その裏で政権に近い人々は私腹を肥やしていた。保守政権への批判を韓国国民は支持した。だから、「北の脅威」を二度と、民主主義の抑圧や私利私欲の道具にしないために、今ムン?ジェインは南北関係を平和に導き、平和定着によって民主主義の根幹を安定させようとしている。
残念ながら、日本ではムン?ジェイン政権の政策を「親北」「反日」というフレームでしか見ようとしない人びとが少なくない。だが、笑い話がある。大統領選挙当時、パク?クネが「親日」、ムン?ジェインが「反日」と、日本のメディアは言っていたではないか。ところが、日本のメディアはやがて、パク?クネを「反日おばさん」などと女性蔑視まで合わせて語るようになった。こうした恥ずかしいありようを、日本のメディアは反省することから、始めなくてはいけないのではないだろうか。
隣の国の大統領の歩みをこの本を通じて、ぜひ知ってほしい。少なくとも私は、隣国の隣人にムン?ジェインがいることをとてもうれしく思う。その人を、韓国の多くの人びとの生きざまと重ね合わせて、理解しようとすれば、韓国の現代史はよりよくわかるようになり、また隣人への敬意を抱くことができるだろう。ぜひ、本書を紐解き、日本で広く知らせてほしい。
論文紹介:清水謙著「Swedish Diplomacy in the Asia-Pacific Region」
書評:宮島喬?木畑洋一?小川有美編『ヨーロッパ?デモクラシー 危機と転換』(評者:立教大学法学研究科政治学専修博士後期課程 小林祐介)

宮島喬?木畑洋一?小川有美編『ヨーロッパ?デモクラシー 危機と転換』2018年4月 岩波書店

はじめに
2010年に起きたギリシャの財政問題に端を発するソブリン危機は、ヨーロッパの政治や社会に大きな変化をもたらしている。本書は、2010年代に入り、「危機」という言葉と共にそんな変化が顕著になり始めたヨーロッパ政治を、9カ国1をモデルに、様々な角度からそれぞれの研究者が筆を振るった1冊である。なお、ここで用いられる「ヨーロッパ」とは何かという問題であるが、本書では28カ国という広い範囲を包括するEUそのものと、その加盟諸国に関する議論をもって、一先ずヨーロッパの議論とし、その意味合いでEUと重なる言葉として用いられている。

第1節 本書の構成と内容
本書は、大きく3つのテーマにまとめられており、序章を含め全12章の論文で構成されている。本節において、各章の内容を手短に紹介していきたい。
まず序章「ヨーロッパ?デモクラシーの『危機』?」では、編者の1人である宮島喬氏がヨーロッパ全体を俯瞰し、本書のタイトルでもある「ヨーロッパ?デモクラシー」に生じた危機と、それに伴う転換について、移民?難民問題やブレグジット、ポピュリズム政治の伸長など、いくつかの具体例を題材にしながら論じられている。最後はEUの課題について触れて締め、この後に続く各章へと繋げている。

Ⅰ.ヨーロッパ?デモクラシーの展開と課題
第1章「難民危機後のドイツ?デモクラシー」では、連邦憲法裁判所がドイツのデモクラシーに果たす役割の変容、その判例理論のヨーロッパにおける影響力について論じている。
第2章「『普通の人』の政治と疎外」では、ロンドン一極集中というイギリス経済の状況下で、既存政治による関心外に置かれていたと感じている「普通の人」にスポットを当て、イギリス政治の特徴について検討されている。
第3章「〈共和国的統合〉とフランス」では、共和国の名の下に移民やイスラームを排除しようとするということがどういうことなのか、これはFN2の言説がFN固有の現象なのかそうでないのかについて答えつつ、デモクラシーにとってどのような意味をもつのかについて検討されている。
第4章「東中欧における『デモクラシーの後退』」では、ポピュリスト政権との不名誉な視点から大きな注目を集めて(しまって)いるハンガリーとポーランド、2カ国の政権を取り上げ、体制転換3後の両国における政治の展開と現政権の検討、それに対するEUの対応から、「デモクラシーの後退」について論じている。同時に、両国の事例が「デモクラシーの後退」といえるのかどうか、その理由付けの難しさについても言及されている。


1 ドイツ、イギリス、フランス、ハンガリー、ポーランド、オランダ、スウェーデン、デンマーク、スペイン。
2 Front National 、国民戦線(本書刊行時)。2018年6月に政党名を変更し、現在は国民連合(Rassemblement National : RN)となっている。
3 1989年から1990年にかけての、いわゆる東欧革命。


Ⅱ.移民?難民受け入れの政治と排外ポピュリズム
ここから続く4つの章は、節題に従って移民?難民問題をテーマとし、国家の政策や社会に与える影響についてまとめられている。
第5章「ドイツの移民?難民政策」では、ドイツの難民受け入れ政策の背景と展開について振り返りつつ、また昨今台頭してきたAfD4についても触れ、人の移動がドイツ政治?社会に対して持つ含意について検討されている。
第6章「多文化主義と福祉排外主義の間」では、オランダ、スウェーデン、デンマークという多文化主義的政策を模索してきた福祉国家をモデルに、様々な理論的?実証的研究に依拠し、2000年代以降のヨーロッパにおいてバックラッシュといわれる変化がどのようにして起こったのか、また、今後のヨーロッパ?デモクラシーがどこへ向かうのかについて考察されている。
第7章「排外主義とメディア」では、ブレグジット国民投票を題材に、メディアが国民投票に与えた影響力を考察し、メディアへの批判と期待とを綴っている。
第8章「政治的行為としての『暴動』」では、パリ郊外の移民集住地域というローカル空間に焦点を定め、そこで展開されてきた政治的行為と社会、公権力との関係性について考察されている。

Ⅲ.開かれたヨーロッパ?デモクラシーへ
第9章「ヨーロッパ統合の進展と危機の展開」では、ヨーロッパにおいて多発している危機が何に由来するのか、統合の進展と不十分さが危機の原因であるという問題意識に立ち、スペイン政治における危機の事例を取り上げて、その発生の背景を明らかにしている。さらに、統合の進展がヨーロッパ社会をどのように変容させ、危機の発生に繋がったかを検討している。
第10章「信仰の自由とアイデンティティの保持に向かって」では、宗教的多元主義の尊重とムスリムへの警戒という欧州共通の傾向の中において、国家の非宗教性原則にもかかわらずイスラームを警戒し、差別的な対応を行うフランス行政について、教育分野、ムスリム側の視点から論じられている。
第11章「ヨーロッパのなかのイギリス」では、第7章同様ブレグジット国民投票結果を題材としつつ、イギリスという連合王国の形成から変容、ブレグジット国民投票への道、連合王国の行方について論じている。

第2節 本書の課題
前節において概観した通り、本書では単に各国の政治を検討するにとどまらず、憲法裁判所という日本には馴染みのない機関、さらにメディアやローカル空間といった、比較的取り上げられることの少ないようなテーマにもスポットが当てられている。
しかしながら一方で、これもまた本書の構成を見れば分かる通り、扱われている国家に着目してみると、序章を除く全11章のうち、ドイツに2章分(第1、5章)、フランスに3章分(第2、7、11章)、イギリスに3章分(第3、8、10章)と、この3カ国だけに合計8章分が割かれていることには、些か構成の偏りを感じざるを得ない。殊に、EU加盟国の中にあって「民主主義の後退」が特に叫ばれるハンガリーとポーランドに関しては、2カ国併せて1章分(第4章)が割り当てられてはいるものの、それ以外の旧東側共産圏諸国(現在EUへ加盟する国に絞ると9カ国5が該当)に関しては残念ながら触れられていない。2004年以降、旧東側共産圏諸国が続々とEUに加盟6して大幅な東方拡大と深化を成し遂げつつあるが、一方ではその進展故に加盟国間の経済格差が広がるなど、ヨーロッパ?デモクラシーに大きな歪みをもたらす事態も年々深刻化していると言わざるを得ない。ハンガリーやポーランドに限って見ても、ある種現在の政治状況は、2010年代に起こった危機が引き起こしたものではあるが、さながらそうした歪みの中で生まれてきたという要素もないわけではない。それを踏まえれば、ここで取り上げられていない国にもスポットライトを当て、今後よりヨーロッパの東西を広範に網羅していくよう本書の構成を拡大していくことができれば、なお良いであろう。そのような期待も込めつつ、敢えて本書の課題として構成の偏りを指摘するものである。


4 Alternative für Deutschland 、ドイツのための選択肢。
5 チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア。
6 2018年現在EU加盟国は28カ国。2004および2007年の第5次拡大ではハンガリー、ポーランド、マルタ、キプロスなど12カ国が加盟し、2013年の第6次拡大ではクロアチアが加盟。全加盟国の実に半数近くを占める13カ国がこの時加盟している。


おわりに-未来へ向けて
第2節において本書の課題と題し、構成におけるテーマとしての国家の偏りを挙げたが、それは拙生が奇しくもハンガリー政治を大きなテーマとした研究に従事する身であり、ややもすると、その視点からヨーロッパを眺めがちであるが故だということをご承知おきいただきたい。EUにおいて不名誉な存在として大きな注目を集めてしまっているハンガリーだが、一方でハンガリーの側からヨーロッパを眺めると、また異なった景色が見えてくるのである。それを前提とした上で、改めて本書を評価して本評を締めくくりたい。
本書はすべて様々な角度から示唆に富む論文で構成されており、現在なお変容を続けるヨーロッパ?デモクラシーについて、初学者を始め、読者にとって大きな知見を得ることが期待できる1冊となっている。加えて、例えばイギリス政治に興味を持って本書を手に取ったのだとしても、その他の章も合わせて読むことで、理解を深めるきっかけになることもあるだろう。新たな興味も生まれるかもしれない。そんな可能性を持っている。
今、ヨーロッパに限らず世界全体は、先行きの不透明さが増すばかりであるが、その中にあって、今後を見通していく上で本書が助けとなるのではないかと考える次第である。
書評:栗田和明編『移動と移民 — 複数社会を結ぶ人びとの動態』(評者:立教大学観光学部 豊田由貴夫)

書評:栗田和明編『移動と移民 — 複数社会を結ぶ人びとの動態』昭和堂2018

本書は、人の移動を研究するに際して、新たな視点を提供しようとするものである。これまで人の移動すなわち移民や移住の研究では、ある特定の地域を視点としてそこに移入してくる人々やそこから移出していく人々を研究対象とすることが多かった。このような視点に対して本書は、移動する人たち自体に着目する視点を重要視するものである。これは世界的に人の移動が量的に飛躍的に増加し、移動が多様化したこと、さらには移動した地域で生活を確立している人々ばかりでなく、頻繁に移動を繰り返す人々が増加している現状に対応するものである。
現在、国境を越えて移動する人々の数は毎年12億人を超えると言われ、人の移動はいまや常態化しつつある。そして規模の増大にともなって、そのあり方も多様化している。これまでは職を求めて世界の「中心」とされる地域への移住が多かったが、現在では労働の可能性が広がり、移住の原因も職を求めるだけではなくなってきている。様々な原因で人が大規模に移動し続けているのが現在の社会となっているのである。
古典的な移民研究では、国家の枠組みが明確であったことから、その国にやってくる人たちがどのようなコミュニティを形成するのか、彼らのアイデンティティはどのように維持されるのか、また変化するのかという問題を主として取り扱ってきた。これは国家にしてみれば、移民をいかに包摂するかが重要であったことから、ある程度は当然の帰結であった。国家にとって移民は新たな定住者であり、それをどう扱うかが問題だったのである。
本書では以上のようなこれまでの研究に対して、人の移動を、より常態化したものとしてとらえようとする。このために人の移動を研究する際に、「移民(emigrantあるいはimmigrant)」という概念よりも「移動者(traveler)」という概念を提案している。これは現代社会においては移動することが頻繁になり、移動を終えた人とされる「移民」よりも、絶えず移動を続けている「移動者」という概念の方が適切であろうという考え方に基づいている。
そして頻繁に移動する人々と緩慢な移動をする人々をそれぞれFrequent Travelers、Slow Travelersと位置づけ、特にこのFrequent Travelersに着目しているのが本書の特徴である。Frequent Travelersとしては、地域と商品を限定して小規模の取引を繰り返す交易人(第1章、第9章)や、短期の海外労働を繰り返す人々(第6章、第8章)などが典型的な例にあたり、観光客(第3章)にも適用が可能とされている。Slow Travelersとは、従来「長期滞在者」と呼ばれてきた人たちにほぼ重なるが、長期滞在者も実は潜在的に移動を繰り返す人々と考えられることから「緩慢な(Slow)移動者」という概念を使っている。以上のような概念をゆるやかな共通の枠組みとして本書全体が構成されている。
本書の内容は以下のようになる。第Ⅰ部は移動の普遍性ということで、本書の枠組みとなる概念が見られる中国広州におけるアフリカ人の事例(第1章)と、やはり頻繁な移動者が集う南アフリカのグローバル特区の場合(第2章)、典型的な短期の移動者である観光者(第3章)、そして語学学校に集う宗教者(第4章)を取り扱っている。第Ⅱ部では移動の出発点である故地と移動先での生活の関連が描かれる。社会主義時代の関係からロシアに出来たベトナム人向けの施設とベトナムで増加するロシア人観光客に見られる「複数の移動の方向性」と「移動の暫定性」いう問題(第5章)、韓国の二つの地域におけるアフリカ人滞留者の生活動態(第6章)、ベトナムから韓国へ職を求めて移動した人々の人間関係のあり方(第7章)、中国からまさに労働のためだけに海外へ移動する(させられる)人々の姿(第8章)が問題となっている。第Ⅲ部では、移動先で生活を確立していく人々の姿が描かれる。アフリカ系アメリカ人の文化(ヒップホップ文化)に関連する商売にアフリカ人が関わる様子(第9章)、東京とミラノにおける中国系ニューカマーズと地域社会とのかかわり(第10章)、また海外駐在員を中心とする日本人コミュニティの実態が描かれている(第11章)。
全体の構成は以下のようになる。
第Ⅰ部 移動の広がり
 第1章 人の移動の普遍性—定住者の視点を離れて
 第2章 南アフリカのグローバル特区と移動者
      —市民/非市民の分断と部分的つながり
 第3章 訪日外国人旅行者の訪問先の分布
      —スマートフォンGPSデータの解析より
 第4章 カトリック聖職者のフィリピン訪問
      —養成中の修道者が通う語学学校をてがかりに
第Ⅱ部 移動先と故地
 第5章 「ソーシャリスト?モビリティーズ」の現代的展開
      —ベトナムとソ連?ロシアとの関係を中心に
 第6章 韓国滞留アフリカ人の移動と集合
      —首都ソウルのイテウォンと郊外アンサンの比較から
 第7章 ベトナムから韓国への労働移動
      —ベトナム流コミュニティの形成と改変
 第8章 中国から東アジア諸国への労働「移植」
      —人材募集会社による移住管理システム
第Ⅲ部 移動する者の生活戦略
 第9章 在日アフリカ人と東アジア交易
      —ヒップホップ文化をめぐる人とモノの移動
 第10章 中国系ニューカマーズがもたらす地域社会の変容
      —東京豊島区池袋地区とミラノ市サルピ地区の比較から
 第11章  シンガポールの日本人社会
      ——海外駐在家庭を中心としたエクスパトリエイト?コミュニティ
最初に述べたように、人の移動は現在、その規模が飛躍的に増大し、それと同時にそのあり方はますます多様性を増している。本書の内容を見ても、人の移動にかかわる研究は、今後も多様な広がりを持つ可能性があるのがわかるだろう。今後の人の移動の研究においては、このような多様化する事例の研究とともに、それらを普遍的に扱う理論が求められる。その際に、本書で示されたFrequent Travelers、Slow Travelersの概念が有効になるであろう。

豊田由貴夫

李美淑著『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

李美淑著『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』2018年2月、東京大学出版会

第二次世界大戦以前、日本は朝鮮半島を植民地支配して、その地の人びとに人間的関心を抱くことがなかった。日本の敗戦で朝鮮は独立したが、不幸にして東西冷戦のもと、南北に分断され、朝鮮戦争を経てそれは固定化された。2018年に入ってからの劇的展開を見るにつれ、南北双方の政権が誕生してから70年の歳月が何であったのか、考えさせられるが、そのことは今はおこう。
 戦後、1965年に日韓が国交を正常化してからも、日本社会は韓国に関心を持たなかった。しかし、韓国の民主化運動がその状態を掘り崩す重大なきっかけを作ってくれた。それが1970年代以降に展開された日本における「日韓連帯運動」であったと思う。
 著者の李美淑(イミスク)は東京大学大学院学際情報学府博士課程を修了し社会情報学博士を取得した若手研究者である。これまでも本学で朝鮮語や英語の兼任講師として勤務されたが、2018年度から立教大学グローバル?リベラルアーツ?プログラム運営センター助教として勤務されている。
 本書は、1970年代から80年代にかけて展開された韓国の民主化運動とそれに呼応した日韓連帯運動についての初めてのまとまった本格的研究である。これまで日韓連帯運動に関する研究は、柳相栄?和田春樹?伊藤成彦編『金大中と日韓関係』(2013、延世大学金大中図書館)がほぼ唯一のものであるが、これは当事者によるまとめの性格が強い。拙稿「金芝河と日韓連帯運動を担ったひとびと」(杉田敦編『ひとびとの精神史 第6巻 日本列島改造—1970年代』(2016、岩波書店)は日韓連帯運動の始まりと公害輸出反対運動について記録している。このほか、吉松繁『在日韓国人「政治犯」と私』(1987、連合出版)、鄭在俊『金大中救出運動小史』(2006、現代人文社)など当事者による記録や在日韓国人政治犯であった康宗憲『死刑台から教壇へ—私が体験した韓国現代史』(2010、角川学芸出版)の手記がある。だが、これらを受け止めて研究として取り組んだものは見られなかった。
 その意味で、この本が韓国出身の研究者によって書かれたことはとても意味のあることである。本書は、日韓連帯運動がトランスナショナルな活動家たちのネットワークという公共圏の形成であることを論証しようとしている。日韓連帯運動が連帯として成立し公共圏といいうるのは、一方的な情報の流れや支援-被支援ではなく、問題提起-認識の共有-応答というコミュニカティブなプロセスが存在していたからだと指摘する。いいかえれば、韓国の困っている人びとを助けるといった同情とか、韓国の独裁政権はひどいといった高所からの批判とは異なる、他者と自己との関係に対する自覚、解釈、認識の中で具体的な行動を通じて自己のあり方を変革していく再帰的な民主化への過程とみなしうるということである。著者はこのことを、韓国民主化運動の情報発信における日本の活動家、特にキリスト者たちの関わり、そして月刊誌『世界』における連帯の言説を見ることで検討した。また、日韓連帯運動を代表する「日韓連帯連絡会議」がまず掲げたのが、「日本の対韓政策をただす」ことだった事実の重要性を確認している。
 実は私はこの本でも何か所か登場するし、連帯運動の当事者でもあるので、客観的批評という意味ではふさわしくないかもしれない。だが、当事者がこれまで重要なことを記録したり語ったりしきれていない状態であることを踏まえ、私見を述べさせていただきたい。
 著者が情報やネットワーク研究を専攻していることもあるが、日韓連帯運動において情報というのは非常に重要なポイントであった。著者が述べているように、1970年代の日本の社会運動においては、狭山差別裁判反対闘争、成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)、そして日韓連帯運動が3大闘争と位置付けられていた。このうち、狭山と三里塚は文字通り状況が日本で公然と進行する中での大衆闘争になっていた。だが、日韓だけは韓国から情報が届き、それをもとに方針を提起できる者が運動を制するという独自の側面を持っていた。今日であれば韓国の情報をすぐ理解できる日本社会の構成員は少なくないが、70年代といえば朝鮮語を理解する人々は、むしろ奇特な存在と見られていたのである。韓国民主化運動は歴史的にいって民衆に寄り添うものであったが、それが世界的に注目されるようになったのも、世界への情報発信が一因だった。ドイツ人記者の光州闘争取材という本書とはやや異なる側面ではあるが、昨年韓国で公開され広く共感を呼んだ映画〈タクシー運転手〉もそうした一端を物語っている。私は韓国の聖公会大学における研究会で2004年に日韓連帯運動についての簡単な報告をし、それが???,?????『??, ??? ????? ???』 (2005、??? )に掲載されているが、そこでも情報の重要性について指摘したことがある。
 『世界』はTK生「韓国からの通信」を連載して、韓国の状況をいち早く伝達した。また、さまざまな韓国のアピール文、報告を訳出し、日本の状況についても合わせて報告する「ドキュメント 金大中拉致事件」を連載していった。日本の知識人に親しまれた『世界』がこうした作業に多くの力を割いたことの重要性、そして戦前の日本に韓国をたとえる機械的対比のような見方が、誌面において様々な意見を通じて克服されていく経過を本書は跡付けた。植民地支配をとらえ直し、韓国との関係で日本社会のあり方を省みる姿勢を『世界』や日韓連帯運動は日本社会に提起したことが、わかるだろう。もちろん、日韓連帯運動が日韓関係のすべてに取り組み、状況を改善できたわけではないが、時代を画する動きであったことは間違いない。全体として、日韓連帯運動を相互関係の中で発展し、変革を試みようと公共圏を形成していったという論旨は、説得力を持っていると見ることができる。『世界』は日本の進歩勢力のすべてではないが、この時代を象徴する存在として、分析対象にしたことが成功していると思われる。論壇という存在がまだ一定の力を持っていた時代ならではのことである。 
 末尾に、いくつか気が付いたことも指摘しておきたい。和田春樹の著作にはそうした趣旨が出ているが、当時の日韓連帯運動の中で日本人が抱いた韓国民主化運動への共感は、並々ならぬものがあった。「金芝河と日韓連帯運動を担ったひとびと」でも述べたことだが、特にキム?ジハの3?1アピールは大きな衝撃だった。日本の議論には「同情」のレベルのものもあったろうが、ともに自らを解放しようというキム?ジハのアピールを受けて、真剣に韓国を知ろうとした者たちもいて、そこから日本の近代史上初めて、朝鮮語を学ぼうということが社会運動として提起された。この点の重要性は強調してもよかったように感じた。
 本書は「キーセン観光」に反対する女性たちの運動を重要なものとして叙述している。この点は『金大中と日韓関係』で十分触れられなかった課題であった。このほかにも、日韓連帯運動の様々な展開や広がりがあったのであり、その実態や社会的意味も今後、検討してくれればと思う。また、よくいわれる「本国志向」と「在日志向」という二つの流れについては本書で対比的に記述されているが、日韓関係の中での運動的分岐の発生や、二つの課題を統一的にとらえようとした梶村秀樹の問題提起(『朝鮮研究』との議論)も視野にいれることが今後の研究で必要とされるであろう。
 お詫びしなくてはいけない点がある。私自身が証言したことが本書の1ページに出てくるが、刊行後の著者とのやり取りで私が韓国に運んだ映画のタイトルが〈自由光州〉なのに、誤って〈しばられた手の祈り〉と語っていることに気が付いた。大変申し訳なく、著者や読者にお詫びする次第である。〈しばられた手の祈り〉はスライドで、わたしはこの時にスライドも持ち込んでいるので、錯覚したのである。
 本書の143ページの注22で中井毬栄が『朝日新聞』の連載企画「65万人」の担当者であるように記述されているが、これは夫君の故宮田浩人の誤りである。宮田浩人は『世界』で編集部の名前で掲載された「ドキュメント 金大中拉致事件」の筆者でもある。
ハンギョレ新聞の主筆などを務めたキム?ヒョスンは韓国で在日韓国人政治犯とその支援運動をテーマにした『祖国が捨てた人びと』という本を刊行した。遅くなってしまったが、秋にはこの本を刊行する予定で、私たち平和?コミュニティ研究機構では出版に合わせてシンポジウムを行なう予定である。
 日本の連帯運動の当事者が忙しさにかまけているうちに、韓国の研究者がしっかりした仕事をしてくれたことに、改めて感謝を表したい。本書は貴重な研究成果であり、日本でも多くの人々に読まれることを願ってやまない。関連資料の整理や記録作成に、私自身も一層尽力したいと思う。

石坂浩一
(立教大学 平和?コミュニティ研究機構代表)
「グローバル社会での平和構築」講義担当:清水謙先生
みなさん、はじめまして。平和?コミュニティ研究機構で「グローバル社会での平和構築」の講義を担当いたします清水謙です。どうぞよろしくお願いします。

私は、スウェーデンの政治外交史を中心に国際政治学を研究しています。私がスウェーデンを研究するようになったきっかけは、高校時代に偶然紹介された交換留学プログラムでストックホルムのダンデリュード高校に一年間留学したことでした。ダンデリュード高校では社会科学と自然科学の両方を履修するクラスに入り、スウェーデン語を学びながら、歴史や地理、国際経済学や環境学の授業で世界のことに触れて国際関係に大きな興味を持つようになりました。
帰国してからはさらにスウェーデン語と国際関係を学びたいと考え、大阪外国語大学外国語学部(現:大阪大学外国語学部)のスウェーデン語専攻に進みました。スウェーデン語はマイナーな言語と思われるかもしれませんが、隣のフィンランドでも公用語となっていて、1000万人以上の人がスウェーデン語を母語としている北欧最大の言語といえます。ちなみに日本でも人気のあるムーミンの原作者トーベ?ヤーンソンさんはフィンランド人ですが、母語がスウェーデン語なのでスウェーデン語で原作が書かれています。スウェーデン語の運用能力を身に付ければ、同族のノルド語であるノルウェー語、デンマーク語の理解も可能となります。そうすると、スカンディナヴィア全体でスウェーデン語理解してくれる人は約2000万人にものぼります。
学部時代には、専攻のスウェーデン語のほかに、副専攻語のフランス語からロシア語やサンスクリット語までいろいろな言語の授業にも出ていました。たくさんの言語に触れることでさまざまな国?地域の歴史、文化を知ること、国際的な相互理解がいかに大切かを実感しました。大学ではスウェーデンに2回留学をしました。3年生のときにスウェーデン政府奨学金を受けてヴィスカダーレン国民大学校に語学留学をし、4年のときにJASSO派遣留学生としてユーテボリ大学で国際紛争解決学を学びました。この授業ではアクティヴラーニングなども取り入れられていて、そのときの経験を授業でも活かしていこうと考えています。留学時代は旧ユーゴスラヴィア紛争にも大きな関心を持ち、たとえば大量虐殺のあったスレブレニツァに訪れるなど、積極的に現地に足を運んで調査することも行いました。外大時代は北欧史と国際法と2つのゼミを選択しました。北欧史のゼミでは歴史学の方法論を、国際法ゼミでは国際関係と法学の方法論を学びました。この2つのゼミを履修することで、スウェーデンを研究対象とした国際関係を研究したいと考えるようになり、国際関係の方法論をより専門的に学ぶために東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)に進学し、それ以来一貫してスウェーデン政治外交史を研究しています。
私がまず興味を持ったのは、「積極的外交政策」と呼ばれる人権、平和、軍縮などに重点を置いたスウェーデンの外交政策についてでした。スウェーデンがこのような外交政策を推進するようになった背景には、アルジェリア独立戦争(1954-62年)においてアルジェリアの人権状況を憂慮したスウェーデンが外交政策の柱に人権を盛り込んだことが挙げられます。また、スウェーデンが「パルメ委員会」で知られるように軍縮の分野を牽引するようになったのにはスウェーデンの核開発計画が大きく影響しています。核開発は世論の反対で断念しますが、核に関して蓄積した知識を核軍縮問題に活かすことで、スウェーデンは軍縮問題の旗手となっていきました。

スウェーデン外務省本館(2010年撮影)

このスウェーデンの「積極的外交政策」は移民/難民の積極的な受け入れとも軌を一にしています。スウェーデンはもともと第二次世界大戦までは優生学思想に基づいて排外的な外国人政策を採っていましたが、戦後はその反省から外国人労働者や難民を積極的に受け入れています。スウェーデンにも移民をめぐる問題はありますし、近年では極右も台頭してきていますが、「積極的外交政策」の一環としてスウェーデンは移民/難民に寛容な国として知られています。では、なぜ移民/難民は移住先にスウェーデンを選ぶのでしょうか。2014年から2017年まで文部科学省科学研究費補助金を受けて、スウェーデン、ヨルダン、レバノンなどで調査を行ったところ、中東でもスウェーデンの積極的な難民の受け入れと人道的な外交政策のことは非常によく知られていて、スウェーデンであれば人道的に手厚い保護が受けられると考えてスウェーデンを移住先に選択していることがわかりました。つまり、経済的な理由もあるでしょうが、最も重要視しているのは人間の尊厳を大切にしてくれそうだという意識であることが明らかとなりました。
現在の私の研究テーマですが、近年の研究においては、スウェーデンが「中立」を標榜しつつも、冷戦期にはスウェーデンが実際には秘密裏に西側諸国と密接な軍事協力関係を構築してきたことが明らかになってきています。先行研究ではそうした西側との軍事協力の運用実態の解明に重点が置かれていますが、なぜ西側との軍事協力を構築し始めるに至り、そして非加盟国でありながらNATOのバルト海戦略を補完していく重要なアクターとなっていったのかという新たな問題を解明することが私の目下の研究領域です。
こうした研究成果を活かして、授業では現地調査での経験を基にした知見を取り入れながら、できるだけ多くの国?地域の政治や歴史、文化などをできるだけ多く紹介することを心がけています。また、学生さんたちの関心や興味に沿ったテーマを広く柔軟に拾い上げて、複眼的な視野に立って学術的好奇心をより広げていけるトピックを提供したいと思っています。みなさんと授業でお会いできるのを楽しみにしております。

【経歴】
2001年3月 大阪外国語大学外国語学部地域文化学科中?北欧専攻スウェーデン専攻入学
2003年8月 ヴィスカダーレン国民大学校留学(スウェーデン政府奨学金)
2005年8月 国立ユーテボリ大学留学(JASSO 派遣留学生)
2007年3月 大阪外国語大学外国語学部地域文化学科中?北欧専攻スウェーデン専攻卒業
2009年3月 東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)修士課程 修了
2009年4月 日本学術振興会特別研究員(DC1)受入研究機関:東京大学(2012年3月まで)
2017年3月 東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)博士課程単位取得満期退学
2016年4月より本学兼任講師

【主要業績】
「冷戦期のスウェーデンの外交および安全保障政策-これからの研究の礎-」、『北欧市研究』24号、2007年、109-127頁。
「スウェーデンの外交政策-積極的外交政策の系譜」、村井誠人『スウェーデンを知るための60章』明石書店、2009年、218-224頁。
「第二次世界大戦後のスウェーデンの移民政策の原点と変遷-「人種生物学」への反省と「積極的外交政策」の形成過程から-」、『北欧史研究』26号、2009年、30-54頁。
「スウェーデンの2006年議会選挙再考-スウェーデン民主党の躍進と2010年議会選挙分析への指標-」『ヨーロッパ研究』10号、2011年、7-27頁。
「スウェーデンにおける「移民の安全保障化」-非伝統的安全保障における脅威認識形成-」『国際政治』172号、2013年、87-99頁。
「スウェーデンにおける国籍不明の潜水艦による領海侵犯事件についての分析-「中立」と西側軍事協力と武力行使基準に着目して-」『IDUN-北欧研究-』21号、2015年、337-368頁。
「スウェーデン-移民/難民をめぐる政治外交史」、岡部みどり編『人の国際移動とEU地域統合は「国境」をどのように変えるのか?』法律文化社、2016年、118-131頁。

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